『改めて原発事故に学びこれからの暮らしを考える』
第4回「原発事故と私のくらし」連続学習交流会 基調講演
≪ 一ノ瀬正巳氏 基調講演 概要 ≫ 文責/事務局
福島原発事故で大変な目に遭いました。まだ、災害は終息していません。又福島以外にも多数の原発があり、その予想される災害の恐れにも私達はおののいています。災害下で、災害の恐れの中で、私達はどう生きるのか、生きればよいのか・・これからの暮らしには、なお警戒心と、勉強と実践力が必要です。
活断層とは、日本はすべて変動帯
私が原発立地の問題に気づいたのは、大学が地質学科で、地質調査をすれば、たびたび断層を見ることがあり、断層の事や日本の地質を知っていたからです。阪神淡路大震災の野島断層も出来たてホヤホヤを見ました。あれは小さな断層でしたが、大きな災害を起こしました。地質学では新しい断層を活断層と言っていました。新しい断層は至る所にあります。原発を作るためには、そんなに断層があっては困りますから、電力会社はなるべく活断層を少なくしたいと考えました。地質学で活断層としていたのは第四紀の地層を切っている断層でした。年数で言えば250万年ほど前から第四紀は始まります。活断層を少なくするために電力会社は何をしたかといえば、何と12〜13万年前からということに変更しました。これで「活断層」はうんと少なくなります。活断層という時、それは「新しい」ということを示すだけです。古い断層だからといって、もう動かないという保証は何もありません。似たようなことで、活火山というのは、現に噴火している火山ですが、死火山という用語は今ありません。死火山と言っていたのに噴火したことがあるからです。だから、活断層というのは「活きている」断層、普通の断層は「死んでいる断層」と考えるのは間違いです。およそ、活断層でなくても、断層があること自体が、安定した場所ではなかった事を示しています。再びストレスを蓄積しつつあると警戒すべきです。日本には至る所に断層があります。それくらい日本はすべて変動帯なのです。新しく断層ができることもあります。12〜13万年以前か後かだけを議論しても、あまり意味がありません。
伊勢湾から若狭湾にかけて断層が密集しています。養老断層(養老山脈)もその一つです。地形的に見ても本州で一番細い地峡で、言わば「千切れかけている」ところです。断層ができて当然です。原発のその場所だけでなく、広く地域全体を総合的に見なければ立地の適否の判断はできません。
日本には四つのプレートが集まっています。世界でも珍しい所です。プレートどうしは力を及ぼしあっていますから、日本列島には地震が多く、火山も噴火するし、地殻変動があります。そんな日本列島が安定して静かである筈がありません。原発を作るには、全く不適当な所です。外国では殆ど例がありません。
過酷事故への準備
大勢の人にお勧めするわけではありませんが、時に、全く電気のない生活を経験する事もあってもよいと思います。名古屋に住む私は、遠くない時期に、浜岡か若狭湾沿岸の原発の過酷事故に遭う確率は高いと思うので、その時どんな所で避難生活をすればよいのだろうかと考えています。名古屋は浜岡から130km、若狭湾からは80kmです。なかでも震源域のど真ん中にある浜岡は直下型地震となり、福島どころではない大事故が予想されます。名古屋は全市避難となるでしょう。市にその計画はありません。過酷事故となれば、おそらく行政の対策も、外からの救援も届かないであろう事態が想定されます。電気のない生活、山菜やコオロギや木の実を採って食べる生活、天幕小屋がけの生活が現実のものとなりそうな予感がします。無人島で生活できる能力を持ちたいと願っています。
原子力の平和利用について
原子力の平和利用については1953年にアイゼンハワーが国連で演説をしました。平和利用なので結構ではないかと思いましたが、実はこれはマヤカシでした。核による世界支配のために発電用原子炉を普及し、その技術と一緒に核燃料も供給する体制を作って国内の核産業を守る、という考えが隠されていました。ウラン原子炉にはプルトニウムが出来ますから、原子爆弾の材料が「平和産業」の中で生産され続けます。平時の利用が原発ならその戦時利用が原爆だ、と言えます。
一方で、原子力発電所が平和な安全な発電装置かといえばそうではありませんでした。原子炉は非常に巧緻にできておりますが、大エネルギーを発生するので、その機構に不安があります。リスクに際して、核分裂反応を停止する装置は二段しかありません。また複雑なパイプ類が地震動にたえられるかどうか、冷却用海水の取水口は津波の引き波、寄せ波に耐えられるかどうか。特に、原子炉や発電装置のちょうどその場所に断層が出来るならもう全く処置なしになります。もし万が一爆発すれば、原発の放射線の害はトータルでは原子爆弾以上になります。原子炉は、24時間365日運転を続けているので、原子炉の中にどんどん放射性物質が蓄積され続けているからです。
電気を使う生活
今や電気のない生活は考えられません。しかし、さしあたりの心配はいりません。昨年の夏は、原発はみな止まっていました。それでも何とかなりました。勿論余分な電気は使ってはなりません。しかし、家庭の夏のクーラーを止めたり、冬の電気炬燵を節約する必要はありません。一方で、部屋の蛍光灯が五本あれば一本はずせば2割の節約になります。トイレの電灯は使わないときは消すというようなことは当然です。可能なことは大いにやり、将来の自然エネルギーだけの生活の準備をしましょう。
石油にしろ、天然ガスにしろ、そしてウランも無限に資源があるわけではありません。これからの私たちの暮らしは、基本的には電力の使用を限りなく増大するような事は止めて、相当に「慎み深く」ならねばなりません。人類の活動は、既に地球の自然に影響を与えています。太平洋の真ん中のハワイで観測される大気中の二酸化炭素は、記録紙上に綺麗な季節変化と年次的な直線的上昇を示しています。世界各地の氷河は、その末端が明らかに後退しています。温暖化は明らかです。地球のリズムからすると現在は氷河期に向かっている筈で、今の温暖化は一時的な波に過ぎないとも言えますが、それは地質学的な年数の話で、今は産業革命以来の人類の活動の影響があることは否定できません。
「くらしの見直し」とは
生活の見直しが必要なら、根本はこのエネルギーをふんだんに使う「経済成長政策」を正すことに尽きます。「再生可能と持続」の域を超えて地球の財産を食いつぶし、やたらと熱を発散し、調和している環境を乱し、汚染します。大地に還元しない大量のゴミを出します。そして人を過重労働に追い込み、貧富の差を導きます。人の浪費、人の使い捨てです。現状は将来のことをみない「刹那主義」になっています。
経済活動は地球の許容範囲で行うべきもの、そして人間のためであるべきものです。豊かな自然の中で、夜は早く寝て朝は早く起きる、家族団らんも出来るゆとりがなければなりません。それを可能にする改革の運動が必要です。「くらしの見直し」とはこういうことでしょう。